歴史

全三菱ラグビーフットボール倶楽部とは?

 1928年創部。奥村竹之介(三菱合資=現・三菱商事)を中心に、三菱系各社の有志により同年暮れに「関東全三菱ラグビー倶楽部」として結成された。当時、三菱グループの会社単独でラグビーチームを有するのは明治生命(現・明治安田生命)、東京海上(現・東京海上日動)、日本郵船の3社で、当倶楽部はそれ以外の会社からなる混成チームという形態でスタート、三菱本社、分系会社、関連会社の従業員による親睦団体「三菱倶楽部」の戸外運動部に所属し、関東ラグビーフットボール協会におけるクラブチーム第一号として登録された。

 戦前の活動で特筆されるのは、1930年4月29日、東大駒場グラウンドで開催された関東ラグビーフットボール協会主催第1回7人制大会「社会人の部」決勝で東京鉄道局を破って優勝。さらには1940年9月13日、明治神宮競技場(現・国立競技場)で関東ラグビーフットボール協会主催の東日本社会人大会決勝で、国鉄秋田土崎工機部に3-6で惜敗して準優勝、という輝かしい実績がある。

 戦後、財閥解体の影響で「三菱」を名乗ることも出来ない時期が続いたが、1954年の三菱商事復活合併を期に、関東全三菱ラグビー倶楽部の活動が復活した。

 2000年(平成12年)、関東、関西、九州地区を含めた文字通りの全三菱として再編され、名称を「全三菱ラグビーフットボール倶楽部」と改めた。

 2013年3月末時点での会員チームは、三菱重工(相模原、横浜、名古屋、長崎)、三菱自動車(京都、水島、岡崎)、三菱商事、明治安田生命、東京海上日動火災、三菱東京UFJ銀行、三菱地所、三菱製鋼、三菱マテリアル、三菱電機伊丹、ニコン、日本郵船、三菱電機鎌倉、三菱プレシジョンの各社チーム。

 現在の活動は、T.Y.O.トロフィー大会、東西対抗戦(吉田義人杯、チャンピオンズカップ)、全三菱全三井定期戦が定期イベントとして実施されている。また、随時「全三菱」を編成し、長崎遠征や海外遠征を実施している。

 オリジナルチームジャージは臙脂×白のボーダー柄。

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1929年の関東全三菱ラグビー倶楽部、対東京海上戦で(提供:大橋堅太郎氏)

東西対抗戦とは?

 戦後活動を復活した関東全三菱ラグビー倶楽部に対して、関西でも三菱系各社でラグビーチームが活動をしており、東西の三菱ラガーメンのレベルアップと親睦交流を目的とする東西対抗戦が1959年3月22日、西宮球技場第一グラウンド(現・阪急西宮ガーデンズ)で行われた。

 この東西対抗戦には、吉田義人(新三菱重工業副社長=当時)から勝者にカップが寄贈され、「吉田義人杯東西対抗戦」として今日に至っている。第2回東西対抗戦は1960年3月20日に秩父宮ラグビー場で行われ、以来、名古屋・瑞穂競技場での開催が続く時期もはさみ関東、関西で交互に開催されるスタイルとなった。

 第1回東西対抗戦で「関西全三菱ラグビークラブ」として編成された組織は、その後関西地区の三菱各社の支援を得て毎年、東西対抗戦に臨んできた。特に、三菱自動車京都が社会人日本一となった1971年を中心とする20年間(66年~85年)は関東全三菱が自工京都の胸を借りるという図式が続いたが、関西が17勝3敗と圧倒した。

 東西対抗戦は三菱ラガーマンにとっては最大のイベントであり、最盛期には選手、役員、スタッフはもちろん、三菱各社の役員・上司・先輩・同僚・部下、さらには家族や友人も観戦応援に集い、400名を超える規模の行事であった。そのため試合も、吉田杯を争うAチームの試合のほかに、Bチームの試合やOB戦を行なうほか、試合後の懇親会も盛大であり、正に全国の三菱ラガーマンが一堂に会するものであった。

 その後、養和会千歳船橋グラウンドが売却された頃から、ラグビーを巡る環境が次第に悪化。チームによっては単独活動がままならない事態となり、次第に東西対抗戦への派遣選手も減少してきた。2001年にはAチームだけの試合に縮小すると同時に、吉田杯とは別に、東西トップチームによる三菱ラグビー№1を決める「チャンピオンズカップ」を新設した。関西は三菱自動車京都が代表を続けたが、関東はT.Y.O.トロフィー勝者が代表となる方式を採用した。しかし、2003年以降は三菱重工相模原が関東代表を務めることが続き、同チームが2008年トップリーグ入りした年を最後に実力差はいかんともしがたく、このチャンピオンズカップは中断している。

 さらに、東西双方の遠征費用捻出の困難さも加わり、2010年の第51回東西対抗戦を最後に隔年開催に変更された。以来偶数年度に開催している。

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吉田義人杯のカップ

T.Y.O.トロフィー大会とは?

 1954年、関東全三菱ラグビー倶楽部の活動が復活した。この頃、三菱系各社にも単独チームを有する会社が増えたため、1956年に三菱系列各社のトーナメント大会がスタートし、優勝チームに「T.Y.O.トロフィー」を授与することになった。

 このトロフィーは、谷村順蔵(三菱商事代表清算人,明和産業)、吉田義人(新三菱重工業副社長)、奥村竹之介(三菱商事)の3氏の頭文字を取ったものである。爾来、各社チームがトーナメント方式で覇を競ったが、次第に実力差が顕著になり、安全上の理由からも従来下位トーナメントとして実施していたものを1995年から「大橋杯」として切り離し、上位トーナメントの勝者T.Y.O.トロフィーとの二段構えとなった。しかしながらT.Y.O.トロフィー対象のチームにも実力差がつき始め、三菱重工相模原と明治安田生命の2強時代を迎え、2000年からこの2強によるタイトル戦という形態に衣替えした。

 さらに2003年からは、2008年シーズンにトップリーグ入りを果たすなど強化著しい三菱重工相模原が明治安田生命を圧倒する試合が続いたため、2013年から実力拮抗チームを理事会が指名して対戦する方式に再度変更した。

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全三菱全三井定期戦とは?

 1930年(昭和5年)、三井物産のラグビーチームを中心に全三井ラグビークラブが結成された。日本を代表する企業グループである三菱と三井の対抗戦は、戦前からも行われており、日本ラグビー界でもクラブチーム同士の定期戦の嚆矢といえるもの。

 戦後、両クラブの活動が再開された後、1955年3月6日に復活第1回定期戦が行われた。試合は3月第1日曜日、三菱と三井が交互に主催する形式が長らく続いた。当初は三菱が明治生命、三井は三井精機がそれぞれ圧倒的な力を有しており、単独チーム同士の試合を避けるために、1社からの選手を7名以内にするという紳士協定もあった。

 三菱のホームである千歳船橋グラウンドは1993年を最後に、三井のホームである浜田山グラウンドは2005年を最後にそれぞれ消滅したため、2007年からは三菱養和会調布グラウンドでの開催が続いている。

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昭和4年?5年?の第1回戦で(横浜公園グラウンド)

 近年は実施時期が各チームのオフシーズンと重なることもあって、チーム編成が当日の来場者次第という状況が続いていたが、2014年に開催した節目となる第60回大会は春シーズンに開催し、両クラブ共選抜チームによる試合となり多くの観衆の前で熱戦が繰り広げられた。定期戦の試合後には、記念試合として東芝ブレイブルーパス対三菱重工相模原ダイナボアーズが行われ、各チーム各選手が交流を深めた。

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第60回記念大会後の集合写真(三菱重工相模原グランド)

大橋杯とは?

 1994年、長らく幹事を務めた大橋堅太郎(三菱地所)が逝去された折、故人の想いを活かして欲しいとのご遺族からのご寄付を受けて新設したタイトルである。1995年から実施。当初はノックアウト方式のトーナメントで、優勝チームは上位トーナメントであるT.Y.O.トロフィー大会への挑戦権を得た。

 その後、参加チームが次第に減少する中で試合数を増やすため、予選プールを行い各組上位がトーナメント方式で大橋杯を競う方式や、12人制のワンデートーナメント方式で実施するなど毎年のように工夫を凝らして継続したが、単独チームで試合を行なえない状況が多発、2003年の第8回を最後に中断している。

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1997年6月1日、三菱製鋼に第2回大橋杯授与(明治生命グリーンランド)

海外遠征の実績は?

 創部60周年を記念したイベントとして、OB有志による「シンガポール遠征」を1990年1月に実施。以後、現役は1992年にジャカルタ、1993年にニュージーランド、1996年にバンコク、2004年にオーストラリアに、OBが1995年にクアラルンプールに遠征を実施した。中でも特筆されるのは1999年3月12日から23日までの10日間に及ぶイングランド&ウェールズ遠征である。この遠征には途中からOBも合流し、3つのクラブと合計6試合を実施。本場のラグビークラブスタイルを満喫したツアーとなった。

 2013年3月、9年ぶりに実施した海外遠征は当初、上海遠征として企画され準備を進めていたが、実施1ヵ月前に現地の大気汚染がにわかに問題となり、急遽遠征先を台湾に変更し実施された。

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初の海外遠征はOBが1990年1月にシンガポールへ(クリケットクラブ戦で)

長崎との交流戦とは?

 1988年、創部60周年を迎え記念誌「60年のあゆみ」を発刊したほか、同年3月には長崎遠征を実施。三菱重工長崎と対戦した。この遠征を期に関東と長崎の交流は交互の遠征を重ね、1994年3月19日の長崎遠征を最後に途絶えたが、2012年3月に18年ぶりに長崎遠征を実施した。

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関東対長崎(三菱重工長崎)戦(1991年3月24日、三菱長崎球場)

全三菱運動文化大会との関係は?

 1961年、運動活動を通じ技能の向上と会員相互の親睦・融和をはかることを目的として、三菱倶楽部(1957年設置、1973年三菱養和クラブに改称)内に「全三菱運動大会(1978年全三菱運動文化大会に発展)」が組織された。

 三菱養和クラブは、1981年に三菱養和会に合併のこととなり、「全三菱運動文化大会」は、三菱グループで形成する三菱金曜会の事業として、その役割を継続することとなった。(現在の(公財)三菱養和会はその事務局業務を委託されている。)

 全三菱ラグビーフットボール倶楽部の活動は、会員各チームからの年会費のほか、三菱金曜会会社及びその傘下会社数社が拠出する「全三菱運動文化大会」助成金により運営しており、全三菱ラグビーフットボール倶楽部の名称の大きな拠り所となっている。

 当倶楽部の活動拠点は、東京都世田谷区の三菱養和会千歳船橋運動場を本拠地として長らく使用したが、1993年同グラウンド売却に伴い本拠地のない状態が続いた。

 三菱各社はもとより大学のグラウンドを借用するなど転々としたほか、全三井との定期戦はそれまでの交互遠征の慣例を破り、三井浜田山グラウンドを11年連続で会場とする(主催は交互)という苦難の時期であったが、2003年に三菱養和会調布グラウンドがオープンしてこの不便は解消された。